NU'EST 『I'm in Trouble』MVと「眼差しの暴力性」

こんにちは。

突然ですが、NU'EST『I'm in Trouble』のMVをご覧になったことはあるでしょうか。


私は初めてニュイのMVを見た時、洗練された音楽はもちろん、そのMVに衝撃を受け、本格的にKPOPにハマるきっかけになったひとつなのでとても思い出深いものがあります。

 

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公開から大分時間がたってしまいましたが今回は『I'm in Trouble』のMVについてまとめることにしました。

 

※今回、面白いポイントについてまとめていたら、美学についての知識が多少ないと分かりづらい部分が出来てしまいました。出来る限り解説しようと思いますが、ここもっと詳しく教えて~等ありましたらマシュマロやDMに個別で送ってください…申し訳ないです…

 

前回に引き続き、オタクの妄言だということを承知の上読んでいただけたらと思います。

↓ 前回

 

 

マフィアゲームとニュイのMVについて

 

いや画力(えぢから)
流石メンバー全員ビジュ担(ニュイオタクが全員言う)のグループだけある…。

 

 

『I'm in Trouble』に限らず、NU'ESTのMVは、画面自体の構成というより、映像通しての表現が魅力です。

なのでその分構図としては甘い部分が所々あります…

NU'ESTのMVの特徴として、特にW期以降のMVでは独自の文脈で共通して使用される表現、他MVと比較することで表現の狙いが洗練され、濃縮された演出たちにあります。決してアイドルだけが主役ではない、なんならばコンセプトこそが主役として、アイドル自身が素材としても存在する完成度の高さです。

 

このMVはマフィアゲーム(日本で言う人狼ゲーム)を意識して作られており、どストレートにそういった文言が映像内に出てきます。この時期、マフィアゲーム系コンテンツが多い

メンバーは個人での場面が多いのですが、見てる側はGM(ゲームマスター、神視点)として彼らの行動や場面を見ることが出来るように工夫されているのが映像ながらも元のゲーム性にリンクしていて、面白いポイント

 

今回は、マフィアゲームというテーマ故か、メンバーが基本ポーカーフェイスというか、感情的な部分があまり描かれません(これもGM側はあくまで全員の役割、動向を知れるだけであり、内心は知ることが出来ない他人目線というのを感じ…)

 

 

 


アロンさんだけなんか悩んでました。

 

マフィアゲームをテーマにしていることは分かっていただけたかと思いますが、あのニュイのMV…別の読み方もあるのでは!?と思ったので今回はもう一つの読み方の一つとして、視線にまつわる伝説を交えながら(!?)最終的には「眼差しの暴力性」について書いていこうと思います。

 

果たしてこの記事は無事着地することが出来るのか!?!?

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視線のヴェールについて

私が映像を見てまず気になったのは「視線の間になにかが挟まっている場面が多い」ことです。

視線の間はメンバーからカメラのレンズまで(物質的なカメラだけではなく見ること以外の特性を持たない無個性な存在としてのカメラ)の空間を意図しています。つまり、カメラ=誰でもない視点

 

MV中でもこっちを見てる!?というようなカットでも、鏡越しであったり、実は他のメンバーの視界だったりして、意図的に間に何らかを挟んだ視線が多かったりするんですよね。

 

これに関してはニュイお気に入り演出(?)の一つ、あえて対象との間に一枚ヴェールのようなものを嚙ませることで映像自体の構造や視線の構造(対象に対してイメージをかぶせた状態で知覚しているという構造)とリンクさせているのに加えて、こういったヴェールを取り払いたいという欲求不満に働きかける効果があるからです。

 

メンバーの役割

 

マフィアゲームという性質上自然と役割分担がされている今回。
そんな中注目したいのはJR、ミニョン、ベクホの三人!

 

JR

 

まずは一番付き合ってはいけないバンドマン人格を爆誕させたジュニアローヤルさん。軽率に恋に落ちつつ、MVでの様子を追っていくと、JRさんはマフィアゲームの方での役割の方がメインにありそうだが……?

 

ミニョン

 

今回のミニョンさんには超重要な役割が与えられていると思っていて、個人的には瞳(鏡)の役目なのかな〜?という感じ。

 

 


理由として、丸いオブジェクトは瞳を暗示し、そして直後出てくるミニョンも近い存在として暗示されている+鏡が出てくるシーンが一人だけ異様に多いこと。平面鏡だけど…


瞳は一番身近な鏡だと言われています。(ジョン・ダン『絵姿による魔術』)

 

瞳や鏡がそんなに重要か?という感じだと思いますが、瞳=人見ともあるように鏡に自分を映すこと、反映させることは反省ともつながります。そして反映には自分への眼差しがそこにはあるわけです。

 

視線にまつわる物語は世界にいくつもありますがナルキッソス、メドゥーサ、オルペウス、イザナミイザナギなどのどれもが、見ること=死ぬこと、同時に死を見ることにもつながり、見るという行為自体が死と深く結びついていることを示しているのが象徴的です。

 

つまり自分を映すことは眼差しによって自分を殺す程の力を持っている訳です。なぜそんなことが起こるのか?というと、眼差しについての部分で詳しく解説します。

 

 

 

 

↑続けてミニョンの気になるシーンについて

最初、このミニョンがソファに座っているカットが不思議で、これの前の場面からするっとアロンのシーン行くと思ってたので、スッと行かへんのか~い!!とウケてたんですが、「ひょっとしてエコーのオマージュか?」と思った瞬間鳥肌が立ちました。

 

 

エコー…ナルシストの語源となった自愛のカリスマ、ナルキッソスの伝説に登場する妖精。おしゃべりな性格なのに自分から話すことを禁じられ、応じること(エコーを返す)ことしか出来なくなった。水鏡の対であり、声の鏡。

ナルキッソスにフラれたことで、メンブレし、死後岩になった挙句声だけは残るとかいうファンシーな悲劇。かわいそう。
絵画的には物語の導入として見ることを放棄した見られるもの、鑑賞者の注意を引くモチーフとしてある場合がある。

注意を引く~はクロード・ロランの『ナルキッソスとエコーのいる風景』

ポーズが近いのはプッサン『エコーとナルキッソス』とかが分かりやすいかも

 

 

ミニョンは一歩他のメンバーよりも身を引いているというか、本人は無機質な印象な反面、登場する場面は印象的な構成がされていたりするので「注意を引きつつ何も発さない存在」としてエコーと重なる部分があるんですよね・・・

 

 

ベクホ

 

ベコ先生のMV内での立ち位置はクリエイターとしての色が濃く、彼自身の状況も含めて非常に面白いキャラクターに仕上がっています。

そしてシーンの多くにが多く登場していることもポイント。

水と言えば、先ほども登場したナルキッソスあまりに有名な死因(水面に映った美青年(自分)にキスしようとして…)にも直接関わっているモチーフ。


ミニョンがエコーなら、ベコさんはナルキッソス…ってコト!?(!?)

 

 

なぜ彼自身の状況を含めて面白いといったかというと、ナルキッソスは最初の画家としての側面があるからですね。ベコ先生自身は絵を描いているというワケではないのですが今回は写真に関わるキャラクター。奇しくもどちらも画像(水面の影と写真、現実を写し取るもの)を見つめる態度が共通していて面白いし……

 

何より、現代のクリエイターと大昔の芸術家が繋がるのって、すごくロマンじゃな〜〜い!?

 

と一人で盛り上がったりしていたのですが、これはMVというよりか、ファンサービスのようなものかな~・・・・

 

三人に共通するものとは?

 

 


これら三人に共通するシーンとして、画面が赤く、不穏になる場面があります。この時三人に何らかがあったということなのだと思いますが、ここでベクホ、JRは「鏡を通して自分を見た」んじゃないかな~と思っています。

 

ベコ先生は水鏡、JR先生はミニョンので。

 

何を感じたのかは明示されてはないけど、ナルキッソスのエッセンスがあるならば、恐怖、魅惑…??

でも、ここでリアクションに注意を向けている感じもないので、何を感じたかよりも見ること自体が結構大事そう…?

 

なぜこんなに不穏な演出なのかと考えてみたのですが、ナルキッソスが水面に映った影が自分自身だと認識したのは死と同時だったことから見る=死という意味もあってかなぁとおもいます。

奇遇にもこの場面は波紋の映像が重ねられているし…

 

 

 

なぜ「見る=死」なのか?「眼差し」について解説!

 

 

 

画像のような状態、目と目が合っていますね。

そもそも「目が合う」というのは、「お互いの視線と焦点が合っている」状況のこと。

しかしこの「視線」、当然見ることは出来ません。それにも関わらず、私たちは日常的に「視線」という不可視の要素を頼りに他人と生活していることになります。

 

先人は目と目の間で生まれるやり取り、普段私たちが「視線」と呼んでいるものについて改めて捉えなおすことで、異なる土地に存在する伝説が「見る=死」という共通点を持っていることに対しての答えも得られるのではないか?と考えたわけです。

 

こういった視線に関する研究は「眼差し」という語に置き換わり、現在も議論されている歴史のあるテーマのひとつです。

ja.wikipedia.org

 

谷川 渥の『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(めちゃくちゃ面白い)では眼差しが交差することは、相手を対象と化す相互メドゥーサ的営為に他ならない、と表現されています。

 

 

眼差しは相手を「対象」にすること眼差しの交差は相手の「眼差し」を越えて相手を「対象」にする。

 

昔から、ラブロマンスで出てくるような愛の象徴のようなシーンに、二人が「目を合わせる」というポーズがあると思いますが。あれがとても悲しくなるようなことです。

 

例え、運命の人に見つめられても、「見られている」という意識によって人は自分がどうしようもなく一人であることを認識させられる、という。他者の眼差しは、距離を到来させ、それを否定するには相手の眼差しを超えなくてはなりません。

 

つまり「他人と目が合うという行為は永遠に実現しない行為である」ということでもあります。

「見る」ことで相手を「モノ」にしなくてはいけないという行為を繰り返すことから相互メドゥーサ的営為といわれるんですね~…ワードセンスがお上手~

 

ナルキッソスの物語が悲劇と言われているのは、「対象に触れ、合一することの不可能性を知った」という彼自身の欲求の普遍さとその顛末の哀れさとからです。

 

 

 

そういった要素を踏まえてMVに戻りますが相互メドゥーサ的営為一種の殺し合いというのを銃を向けるポーズで表現しているのでは?と…
だから銃を向けてるけど目線は手ではなく相手の目、眼差しを見ている。相手を「対象」にしようと戦っている・・・?

忘れてはいけないのがベクホ先生。このときこっちを見てるんです。つまり鑑賞者、こちら側もこの眼差しの加害者であり被害者にもなりうるというのを静かに伝えてきている!銃を向けているんですよ!

 


アイドルがそもそも視覚に重心を置いているので「見る」こと自体に意識が行きづらいものの、容姿にまつわる問題が話題になる度に、美的権力として存在するアイドルというもの自体に何も思わないわけではなく・・・みたいなモヤモヤを抱えている人は、少なくないと思っています。

そもそも映像はモノしか映せないので映像と私たちの間に眼差しのやり取りも生まれないし、彼らの視線に自分自身を見つけることも本来あり得ないんですが…。この場面を見ていると人をモノとして見ていることを自覚させられてドキッとする・・・・・・

 

あっさりとしたまとめ

本来はもっとあっさりとした感じで本編もまとめたかったんですが、眼差しの問題はどうしてもシリアスになってしまうな~~と反省・・・

でもアイドルを推していくことに関わらず、見ることに含まれる暴力性を自覚しているかどうかっていうのは結構大事なとこじゃないかと思うので・・・

 

それにしても、冒頭の銃やそもそも思惑の矢印のゲームでもあるマフィアゲームは視線の話をする上でも絶妙にマッチしたテーマだったかもなぁ~~と今になって思いました。おもしろ~~

 

ニュイはこういった視線の問題に取り組んでいるMVが結構あって本当に面白いので、今回の内容に興味を持っていただけたらぜひ他のMVも見てみていただきたいです。

今回と内容的に近いのは『BET BET』あたりかな~と思います…ぜひ…みてください…

youtu.be

 

おわり